「推し」を「推し」だと認識出来るようになった
そんな友人は、「あなたは出会った時も書き手になった今も変わってないよ」と言ってくれた。
「あの時から、野心が見えてた。かっこよかったよ」と。
この話には続きがある。
友人は、言った。
「でも、推しについて語ってるのだけは、唯一前と変わったことかも」と。
また、もう一人の知人にも同じことを言われた。
「出会った時は、推しについてなんて全く何も話さなかったよね。今はすごい話すようになったけど」
そう、私は確かに本当に少し前まで、「推し」がいる人に距離を感じていた側だった。
そんなに好きになれる対象がいていいなぁ。でも、自分には縁遠い。
ずっとそう思ってきた。
でも、昨年から、「推し」について記事を書くようになった。
イベントで推しについて話すと、参加者から「めちゃくちゃ幸せそうでした」と感想がくるぐらい、めちゃくちゃ熱く語るようにもなった。
私が推しについてビビられるくらい熱く語るまでになったのは、2年前から始めた1人暮らしがきっかけだ。
それまでは、格安シェアハウスを転々としていたのだが、今までコラムで散々書いてきたとおり、かなり過酷な生活だった。
何度も体調を崩したし、入院もした。
生き抜くことで精一杯だった。
もちろん、その頃も好きなアーティストや芸人さんはいたし、ギリギリの生活の中で心の支えになった曲との思い出はもちろん宝物。
でも、身の危険を感じるような綱渡りの生活では、ゆっくり鑑賞する精神的余裕や余白がなかった。
住人が暴れたり、雨漏りしたりしない住居がある今、また違った味わいを噛みしめている。
生活が変わって、落ち着いて動画を見ることができるようになり、深く考えられるようになったからなのだと思う。
「好き」の輪郭が現れ、くっきりした感じ。
ぼんやり好きだなあ、と思っていた人たちが、「推しだ!」と気づいた。
「推し」を「推し」だと認識出来るようになったのだ。
あくまで私の経験上の話ではあるが、「推し」について考えるにも、ある程度生活の基盤が必要なのだ、と振り返って強く感じる。