授業に部活動、教員に生徒…。さまざまな要素で構成される学校とは、生徒と教員がそれぞれの身体でもって生きる場所であり、そんな躍動的な学校の姿を活写したいと話すのが現役の国語教員で批評家の矢野利裕さんだ。その矢野さんいわく、教壇は非日常の「ドラマ」を披露する芸能の舞台なのだそうで――。
教壇は舞台である
バラエティの世界が学校のようになっていき、教室もまたバラエティ番組のような空間になっている。とくに2000年代以降、そのような流れはたしかに存在している気がする。
ここ数年、「生徒にいかに学習の動機づけをもたせるか」という問題意識から、生徒の「主体的・対話的で深い学び」を推進すべく、従来の一斉教授型の授業ではなく能動性を重視したアクティヴ・ラーニングが強く推奨されている。このような立場からすると、教員が一方的に教壇から話している姿は、いかにも時代遅れのものに映るだろう。
しかし、「いかに学習の動機づけをもたせるか」という問題意識自体を共有するからこそ、一斉教授型の授業を時代遅れのものとして片づけることには違和感がぬぐえない。アクティヴ・ラーニングだって予定調和になることはいくらでもあるし、反対に、一斉教授がエキサイティングなことだってありうる。
だとすれば、「一斉教授型かアクティヴ・ラーニング型か」という問いは本質的ではない。大事なことは、どのような形式であれ、いかに生徒を授業に巻き込むか、ということである。アクティヴ・ラーニングはその手法のひとつでしかなく、それ自体を目的とするものではないはずだ。