ライバル京浜電鉄と目蒲電鉄との競合で池上電鉄は身売りへ
池上電気鉄道は1927(昭和2)年に雪ヶ谷から大崎広小路駅まで開業し、1928年6月に五反田駅まで延長した。池上五反田駅ホームは山手線の高架ホームを跨ぐ4階部分に設置された。駅ビルには、白木屋の百貨店が入居した。白木屋は、東急百貨店の前身の1つだ。
当時の電鉄各社は工費のかかる高架線を整備するのは嫌がり、地平線での敷設を望んだ。
しかし、池上電鉄は将来、白金方面へ延伸する計画だったので、高架上にある山手線五反田駅をさらに跨ぐ形の高架橋を架けた形になる。ただ、鉄道省との設計の交渉はかなりの手間がかかったようだ。
この後、池上電鉄線と田園調布界隈での電鉄各社の競合関係は混沌としていく。玉川電気鉄道、目蒲電鉄、京浜電鉄は新線敷設の免特許の申請を乱発し、互いに牽制しあう。
まず、後の東急玉川線の前身となる玉川電気鉄道は、目黒玉川電気鉄道名義で1927(昭和2)年4月、目黒〜清水〜玉川間の免許を得ている。
続いて、京浜電鉄。東京市の地下鉄計画との連携を目指し、京浜蒲田〜馬込〜五反田間の鉄道敷設免許を申請し、1928(昭和3)年5月に免許が下付される。
7月に京浜電鉄の品川〜白金猿町の軌道敷設特許は失効し、池上電鉄が白金猿町から京浜線経由で品川に乗り入れる話は頓挫する。
池上電鉄も路線延伸を図る。雪ヶ谷〜国分寺間の鉄道敷設免許を受け、1928年10月に新奥沢線雪ヶ谷〜新奥沢間を開業させた。同年11月には荏原中延〜馬込〜池上間の鉄道敷設免許も得た。
池上五反田駅の1日あたりの乗車人員数は1930年度に1万人を超えたが、そこから利用は伸び悩む。昭和恐慌下、経済活動が低迷し、目蒲電鉄と競争を繰り広げる中で、経営に苦慮する。借入金の利子払いすらままならない。
それでも、後藤専務らは白金延長を目指す。1927年に工事施行認可を受け、1933年2月から工事に着手する。