ライバル目蒲電鉄の五島慶太の存在
ここで、池上電鉄株の7割を持つ川崎財閥は、ライバル目蒲電鉄の五島慶太と協議を始めた。後藤らの積極策が結果を伴わないのに不信感を抱いたのだ。五島は、今の東急グループを作り上げた創設者として名高い。
目蒲電鉄の建設を陣頭指揮した上で、1927年には東京横浜電鉄東横線(現・東急東横線)を完成させていた。目蒲線の競合相手となる池上電鉄は排除すべき存在だった。
五島は最終的に川崎財閥の全株を譲り受け、1933年7月の池上臨時株主総会で重役に就任する。川崎財閥内の不協和音を読み取り、うまく経営権を握ることができた。後に「強盗慶太」の異名をつけられる五島が東急コンツェルンを構築していくための転換点でもあった。
これで、池上電鉄の陣頭指揮を執ってきた後藤は失脚する。この後、後藤は京成電軌の経営に注力し、京成線の浅草乗り入れを目指すが、これまた実現はできなかった。
さて、1934年1月、池上電鉄専務となった五島は、白金延伸線の竣工期限延長を申請している。
旧経営陣を更迭したことを理由にした。鉄道省は白金猿町で連絡運輸を図る予定だった京浜特許線がすでに失効したことなどを理由に、同年9月、免許を失効させている。
同年10月、目蒲電鉄は池上電鉄を吸収合併し、池上電鉄と目蒲電鉄のライバル関係は名実共に解消されることになる。
その後、1942(昭和17)年に東京急行電鉄を発足させ、京浜電鉄や小田急電鉄、京王電気軌道、旧玉川電鉄、旧帝都電鉄などの各線を1つにまとめ上げ、「大東急」を作り上げる。