1985年9月15日、マジック18が点灯するなか、サヨナラホームランを放った岡田選手(写真提供:読売新聞社)

療養中は二人でトランプを

結婚から3年弱は義理の両親と、大阪の二世帯住宅で同居していました。野球選手は遠征が多く、1年の半分は家に帰らないし、連絡をとるにも固定電話しかない時代です。一人きりで残されても寂しかったので、同居でよかったなと思います。両親は外出も自由にさせてくれ、月1回東京で料理を習う折には、よく実家にも帰っていました。

83年夏には試合中、右大腿二頭筋を断裂する大怪我もありました。3週間ほど入院し、そのシーズンは試合に出られず。でもまさに「怪我の功名」で、結婚後初めて夫とゆっくり家で過ごすことができました。毎日トランプやゲームを一緒にして、楽しかったですよ。

ただ、それから「いつ何が起こるかわからない。明日、選手生命が終わるかもしれない」と思うようになり、夫の試合は必ずテレビで観ることにしました。毎日試合を観れば、調子がいいところも悪いところも見え、機嫌が悪い理由もわかります。

さらに愚痴を聞くこともできますし、仕事の話もわかってあげられる。ですから、ある意味私たちは自営業のような関係性で、二人三脚で戦っている感覚があります。

85年7月には、息子を出産しました。阪神タイガースが日本一に輝いた年でしたが、それよりも初めてのことばかりで。義理の両親にはずいぶん助けてもらいました。

息子が1歳の時に家を建て、義両親との同居を解消、兵庫県西宮市に移ります。ただ夫は相変わらず、ほとんど家にいませんから、息子と私二人きりの生活です。ある時など、遠征に出る夫に向かって、息子が「また来てね」(笑)。これには参りました。

すれ違いでなかなか父親に会えず、息子も我慢しているところはあったと思います。ただ、反抗期もなくまっすぐ育ってくれて、夫が息子を叱ることはなかったですね。家に父親がいないせいで寂しい思いはさせたくないと、夏は旅行、冬はスキーなどへ連れて行きました。今も私と息子は電話で4時間喋ることがあるほど、仲がいいです。

やはり大きな節目は現役を引退した95年ですね。最後の打席に立った後、涙ながらに電話してきて、何を言っているのかわかりませんでした。私はあえて何も言わなかったと思います。幼い頃から目標にしていた野球選手としての人生が、ついに終わりを迎えたわけですから、その気持ちをわからない人が軽い慰めなど言わないほうがいいと……。

それから阪神の二軍監督就任、そして一軍の監督になり2005年にはリーグ優勝。85年の優勝の時は生まれたばかりだった息子も大学生でしたから、今回と同じように球場で観戦しました。

その後オリックスの監督に。就任の時は華やかに始まっても、やはり終わりは必ず来るもの。何度も繰り返していると、「今度はどういう終わり方をするのだろう」と思うようにもなりました。