大衆的な通勤鉄道

東武鉄道が国鉄型ネットワークから、都市私鉄型ネットワークへと切り替えざるを得なくなったのは、戦後である。

住宅地が広がり、団地が沿線にできることで、都心部への通勤者が増大していった。しかしターミナルは浅草だったため、山手線と直接接続することができず、北千住での乗り換えが重要になってくる。

東武鉄道が国鉄型ネットワークから、都市私鉄型ネットワークへと切り替えざるを得なくなったのは、戦後である(写真提供:Photo AC)

1962(昭和37)年5月に営団地下鉄(現在の東京メトロ)日比谷線に乗り入れることで、都心へのアクセスが便利になる。

東武沿線の住宅地は地価が高くなく、かつ沿線に多くの団地ができたため、利用者がどんどん増えていった。

大衆的な通勤鉄道としての役割が、東武に与えられることになったわけだ。

その後、竹ノ塚周辺の竹の塚団地や、巨大団地の草加松原団地・武里団地などに多くの人が住むようになり、混雑する鉄道になっていく。

それゆえ東武鉄道の本線系統は、複々線化によって対応するしかなくなってくる。複々線化の工事は平成の時代まで続いた。