なぜ官職を欲したのか

なぜそこまで官職が欲しいかというと、現代の政治家が勲章を欲しがるのと同じようなものということもあるでしょう。

しかしそれよりも、自分という存在を自分も認め、他のみんなにも認めてもらうためには、官職というものが一番、手っ取り早かった。自分のレゾンデートル、存在理由になるものが官職だった。

だから朝廷から官職をもらうと、彼らはそれをとても大切に名乗ります。たとえば義経のように検非違使の判官をいただいたら、大夫判官と名乗る。しかも父親が判官であれば、その息子たちは、長男であれば判官太郎を名乗り、次男は判官次郎を名乗る。

父親が伊予守(いよのかみ)になったとしたら、長男は伊予太郎であり、次男は伊予次郎。また伊予太郎が将来的に成熟して、朝廷からまた新たに官職をもらったら、もはや伊予太郎ではなく、自分のもらった官職を名乗ることになる。そんな慣習になっていた。

これは武家社会において、江戸時代までずっと続いていくことになります。だから、たとえば勝海舟であれば安房守(あわのかみ)に任命されると、勝安房と名乗る。誰も「海舟さん」とか、さらに言えば彼には義邦という立派な名前があるのですが、それでは呼ばれない。自分と、いただいた官職はイコールの存在なのですね。

そこのところに注目して、大河ドラマで取り入れた作品が『真田丸』です。

それまでの大河ドラマでは、たとえば真田幸村の父親の昌幸を、「昌幸殿」と呼んでいた。昌幸だけではなく、みな「家康殿」「信長殿」「秀吉殿」と呼んでいたのですが、『真田丸』ではこれをやめ、昌幸のような安房守は「安房殿」、劇中では信繁ですが、真田幸村が左衛門佐(さえもんのすけ)をもらうと「左衛門佐殿」と呼ばれる。石田三成であれば治部少輔(じぶしょうゆう)殿。ただこれは読み癖があって「ゆう」は読まず「じぶのしょう」となりますが。

そのように、武士にとってまさに自分を表現するものが官職でした。だからこそ官職は、土地を与えられるのと同じほど、家来として命懸けで仕えることに値するごほうびだったのです。

頼朝が、これを嫌がった理由もそこにあります。

つまり頼朝にしてみればせっかく自分の家来として組織した武士が、朝廷から官職をもらうことで、朝廷にも忠誠を尽くすことになる。つまり、主人をふたり持つことになります。そうなると、武士の秩序をつくるという頼朝の構想が崩れてしまう。

それは絶対ダメ、主人はあくまで一人であるべきだというのが頼朝の立場です。