鮮明に思い出すのは、素材の味

最初によみがえったのは、幻の黄緑色のフルーツ。丸くて小さくて、青い梅みたいなんだけれど、味はメロンのようでもあった。フランスで食べたきり二度と見たことがなくて、未だに正体がわからず、本当にあったのか、想像物なんじゃないかと思うぐらいだ。

熟れていない青い洋梨も、いとこたちの真似をして喉が渇くと水代わりにかじった。叔母がむいてくれたアーティチョークの甘さもおぼえている。パリの中心に遊びに行ったときは、微炭酸にレモンが入っている「シトロン」という飲み物を買ってもらった。蒸かしたじゃがいもに溶かしたチーズをかけて食べるラクレットも大好きで、これは日本のチーズでやっても美味しくないだろう、と子供ながらに思ったものだ。

どれも日本に持って帰りたかったけれど、日本人の子供の口に合わないものもあった。色々な野菜を一緒に焼いたオーブン料理が出されて、今思うとラタトゥイユ的なものではないかと思うが、知らない野菜の苦みが強くて、どうにも食べられなかった(今食べたら、美味しいんだろうなぁ)。表皮が黒い大根にもびっくりしたが、水分がなくてすかすかで美味しいと思わなかった。

「フランスのフレンチは素材の味が強烈で、またそれを引き出すような絶妙な調理の仕方をしているのに、なぜ日本のフレンチはそれをしてないの?」(写真提供:Photo AC)

どちらにしろ鮮明に思い出すのは、素材の味だ。このように記憶を並べてみると、私の中で「日本のフレンチ」と「叔母の料理」がなぜくっつかなかったか、本当の理由が見えてくる。当時はまだ十歳でボキャブラリーがなかったからしかたがないが、もし今だったら、私は母親にこのように投げかけているだろう。

「フランスのフレンチは素材の味が強烈で、またそれを引き出すような絶妙な調理の仕方をしているのに、なぜ日本のフレンチはそれをしてないの?」 

日本のフランス料理にダメ出ししているように聞こえたら(聞こえますね)申し訳ないけれど、あくまで四十年近くも前の話なので(最近の日本のフレンチは、本家を超えている店も多いと思います)。自分に味覚のセンスがそこまであるとも思っていない。けれど、子供の舌は敏感だから、ちゃんと素材の味を拾っていたのではないだろうか。

新鮮で食べごろの素材をまずは食卓に並べ、鮮度が関係ないものは、また違った形のベストな状態で食べる。むしろ合理的。それがフランス料理なのだ。

※本稿は、『パリのキッチンで四角いバゲットを焼きながら』(幻冬舎文庫)の一部を再編集したものです。


パリのキッチンで四角いバゲットを焼きながら』(著:中島たい子/幻冬舎文庫)

長年フランスを敬遠していた私だったが、40代半ばを過ぎて、パリ郊外に住む叔母ロズリーヌの家に居候することに。毛玉のついたセーターでもおしゃれで、週に一度の掃除でも居心地のいい部屋、手間をかけないのに美味しい料理……。彼女は決して無理をしない。いつだって自由だ。パリのキッチンで叔母と過ごして気づいたことを綴ったエッセイ。