大事にされているのは「全体」から生まれる美しさ

そもそも、最先端のファッションや、おろしたてのピンピンの服を身につけている人は、パリの限られたところでしか見ないし、街行く人を見ていても、いたって地味な色合いだ。でも、地味なんだけれど、カッコイイ。ここが重要なところだ。

バッグなども、あれだけブティックで売ってるくせに、皆、使い古しの擦り切れてるようなものを持っている。なのに、それを見て私は、素敵なバッグだな、いいサックだな、あんなのが欲しいな、と思っている。それは、トータルで見てマッチしているもの、自分に似合うものを選んでいるからじゃないだろうか。

その人のスタイルというものが完成されていると、素敵だなぁ、と一枚の絵を鑑賞するように一歩下がって「退きの視点」で見ることになる。だから、虫眼鏡でシワや毛玉を探すようなことはしないし、詳細はあまり気にならない。

逆に、全てがバラバラで方向性がないと、一つ一つが拡大されて目に入ってしまう。大袈裟に言えば、パリという完成された風景の中では、犬の糞ですら溶け込んで美しく見えるのだ。大事にされているのは「全体」から生まれる美しさ。シワや毛玉や汚れより、大切にすべきは、自分のスタイルを作りあげることなのだろう。

※本稿は、『パリのキッチンで四角いバゲットを焼きながら』(幻冬舎文庫)の一部を再編集したものです。


パリのキッチンで四角いバゲットを焼きながら』(著:中島たい子/幻冬舎文庫)

長年フランスを敬遠していた私だったが、40代半ばを過ぎて、パリ郊外に住む叔母ロズリーヌの家に居候することに。毛玉のついたセーターでもおしゃれで、週に一度の掃除でも居心地のいい部屋、手間をかけないのに美味しい料理……。彼女は決して無理をしない。いつだって自由だ。パリのキッチンで叔母と過ごして気づいたことを綴ったエッセイ。