百福は海外にインスタントラーメンをどう売り込むかで頭がいっぱいでーー(写真提供:Photo AC)
2018年から2019年にかけて放送されたNHK連続テレビ小説『まんぷく』がNHK BSとBSプレミアム4Kで再放送され、再び話題となっています。『まんぷく』のヒロイン・福子のモデルとなった、安藤仁子さんは一体どのような人物だったのでしょうか。安藤百福発明記念館横浜で館長を務めた筒井之隆さんが、親族らへのインタビューや手帳や日記から明らかになった安藤さんの人物像を紹介するのが当連載。今回のテーマは「米国視察 ~カップ麺のヒントつかむ」です。

米国視察

「アメリカに視察に行ってくる」

1966年(昭和41)年になって、百福は突然、アメリカ行きを思い立ちました。

十三田川の工場で始めたインスタントラーメンの製造は需要に追いつかず、わずか二年後、高槻市に移転、日産十万食の工場を完成させました。さらにその四年後には、東京・大阪の証券取引所第二部に上場。百福の仕事は破竹の勢いで伸びていきました。

百福はもう、次のことを考えていました。

「日本国内はいずれ競争が激しくなって、必ず頭打ちの時が来る。そろそろ海外進出を考えないといけない」と思ったのです。

「インスタントラーメンを本格的に世界に広めるためのヒントを手に入れたい」と。

百福はチキンラーメン発売前にも、アメリカ市場に輸出していましたが、当時の売り先は、ロサンゼルスのアジア系移民を対象にした店舗に限られていたのです。

百福のやることにはいっさい口をはさんだことのない仁子ですが、この時は、「すこし様子を見られたらどうですか」と反対しました。

その年は不思議に航空機事故が多く、2月、羽田空港沖墜落事故で百三十三人が死亡、3月、同じ羽田空港への着陸失敗で六十四人が死亡、その翌日、富士山上空で英国航空機が空中分解し百二十四人が死亡する事故が起きていました。

しかし、百福は聞き入れません。

「死ぬ時は座敷に座っていても死ぬものだ。それに、これ以上事故が続く確率は天文学的に低いはずだ」

そんな捨てぜりふを残して、アメリカに旅立ったのです。