食は時代とともに変わる
1971(昭和46)年9月18日、東京新宿の伊勢丹百貨店でカップヌードルの発売を開始しました。一食百円です。
しかし、百福の意気込みに反して、評判は散々でした。
「屋外のレジャーには便利かもしれないが、しょせんキワモノ商品だ」「袋麺が二十五円で安売りされている時代に百円は高過ぎる」「立ったまま食べるとは日本人の良風美俗に反する」などと言われました。問屋からの注文はありません。
その年の11月、銀座三越前の歩行者天国で、試食販売をしました。長髪、ジーンズ、ミニスカート姿の若者たちは、最初は戸惑っていましたが、一人、二人と食べ始めると、たちまち、人だかりになりました。みんな、アメリカの若者と同じように立ったままで食べていました。その日だけで二万食が売れました。
「食は時代とともに変わる」
百福はそう確信したのです。
年が明けて、1972(昭和47)年2月、連合赤軍による浅間山荘事件が起きました。百福はテレビの中継を見ながら、あっと息をのみました。連合赤軍が立てこもる山荘を包囲していた警視庁の機動隊員が、雪の中でカップヌードルを食べているのです。機動隊員には近所の農家からおにぎりの炊き出しがありましたが、氷点下の気温のため、カチカチに凍って食べられません。
そこで、温かいカップヌードルが用意されたのです。その頃、カップヌードルはまだ一般の店頭には並ばず、屋外で活動することの多い陸上自衛隊や警視庁など限られたところに納入されているだけでした。
需要が爆発したのは、チキンラーメンの時と同じ、一本の電話からでした。
警視庁以外の県警や報道陣から、「すぐに送ってほしい」と連絡が入り、「あの食べ物はなんだ?」という一般からの問い合わせも殺到しました。社内は大騒ぎです。その日から、カップヌードルは火がついたように売れだしました。
浅間山荘事件の半年後、日清食品は東京、大阪、名古屋の各証券取引所第一部上場を果たしました。またカップヌードルはアメリカでも発売され、いよいよインスタントラーメンが「日本生まれの世界食」として広がる端緒となったのです。
※本稿は、『チキンラーメンの女房 実録 安藤仁子』(安藤百福発明記念館編、中央公論新社刊)の一部を再編集したものです。
『チキンラーメンの女房 実録 安藤仁子』(著:安藤百福発明記念館/中央公論新社)
NHK連続テレビ小説『まんぷく』のヒロイン・福子のモデルとなった、日清食品創業者・安藤百福の妻であり、現日清食品ホールディングスCEO・安藤宏基の母、安藤仁子とは、どういう人物だったのか?
幾度もどん底を経験しながら、夫とともに「敗者復活」し、明るく前向きに生きた彼女のその人生に、さまざまな悩みに向き合う人たちへの答えやヒントがある――寒空のなかの1杯のラーメンのように、元気が沸き、温かい気持ちになる1冊。