なによりも楽しかった

僕の仕事が朝ゆっくりめで、薫の体調と天気がいいときは、できるだけ散歩に出かけることにした。というのも、ずっと寝てばかりいると、どんどん体力が落ちてしまうから、可能な限り歩かせるようにこころがけた。

いや、実際は抗がん剤の副作用から足の爪が剥がれてきて歩行が難しくなっている状態で無理をさせるのはどうなのだろう?と躊躇していたのだが、薫が「歩けば元気になるから」といって多少無理をしてでも散歩に出かけるようになったのだ。

人間にあまり触られることが好きではなかった保護犬・福(写真提供:著者)

全身へのがんの転移と進行が見つかったときの絶望的な気持ちで「私はもう東京オリンピックは観られないんだね」と毎晩泣いていた薫は新たな目標にむけて前向きになり始めた。

秋に姪の結婚式に参加するために松山に行くこと、そしてなんとしてでもつむぎ(娘)の成人式の晴れ着姿を見ること。ずっと泣き続けていたあの頃では考えられないほど、前向きになっている。

健康な僕が歩けばあっという間にたどり着ける場所も足の痛みをこらえつつゆっくりとしか歩けない薫にとっては近所の散歩もそれなりに時間のかかるお出かけになる。お気に入りの場所は最近できた高級スーパーのアウトレットストアだ。

ちょっとおしゃれなパンやチーズ、あとはプリンとかお菓子が格安で店頭に並ぶその店はいつも開店と同時に行列ができるほど人気だ。運良く目当てのものが買えた日は得した気分になる。

エコバッグに戦利品のごちそうを携えて子ども達の喜ぶ顔を想像しながら、だいたい昔話が多いけれど他愛もない話をしながらぶらぶらと歩いた。ときどきは帰り道に図書館によって本を借りることもあった。

散歩に慣れさせようと、意を決して福を連れて散歩に出かけることもあった。日中の人や車が多い時間はあいかわらずうまく歩けはしなかったけれど、それでも近所を犬と一緒に夫婦で歩く時間はなによりも楽しかった。

はたから見ると犬に引きずられている夫婦に見えていたかもしれないけれど。