今生の別れ
ショーケンと私は、それ以後も交流が続いた。私がドラマの現場を離れていた時も、変わらず年に数回は食事をした。
00年代に入ると、ショーケンは体調を崩したり、ケガで入院したり、仕事もトラブルが生じたり、不遇な日々が続いた。
それでも、2009年8月の私のTBSの定年パーティーには駈け付けてくれたし、石田えりと一緒にスピーチをして、会場を沸かせてくれた。
最後にショーケンと会ったのは、2015年の1月22日、冷たい小雨の降る日だった。彼の仕事場近くの行きつけの駒沢公園のイタリアンレストランだった。何年か前に結婚した理加夫人も一緒だった。
ショーケンからの呼び出しの理由は、三つあったと今ではわかる。
一つは夫人の紹介だが、もう一つは「映画を撮りたいから、プロデューサーをやって欲しい」というものだった。
食後、仕事場に案内されショーケンが自ら書いたシノプシスを見せられた。気宇壮大な企画で、エネルギー資源をめぐる国際スパイの話だった。
ショーケンが昔付き合いのあった田中清玄辺りから聞いた話がヒントのようだった。実現可能性はゼロに近かった。
「企画書は読ませてもらって、後で感想を伝えますよ」と言って、自分の仕事場に戻ると言うと、ショーケンが「オレの車で、送って行きますよ」と駒沢から赤坂まで送ってくれた。
車中で、ハンドルを握りながら「実はオレ、……ガンでね、2回手術したんですよ。今でも通院してるんですよ」。
思いがけない「告白」だった。
見た目は以前と変わっていなかったので、半信半疑だった。歌手としてのライブ活動も、むしろ積極的にやっているというのに。
しかし、ある種の「達観」の心境だったのだろうか。
別れ際、「また、会いましょう」「今日はありがとう」と言葉を交わした。
これが「今生の別れ」となった。
その後、メールでのやりとりも間遠になっていった。
そして2019年3月26日、ショーケンこと萩原健一の訃報に接した(あの戸高正啓が、19年末TBSのCSチャンネルで『ショーケンFOREVER』という番組を作って放送した)。
ショーケンの死も又、ひとつの時代の終焉を象徴するものであった。
※本稿は、『証言 TBSドラマ私史: 1978-1993』(言視舎)の一部を再編集したものです。
『証言 TBSドラマ私史: 1978-1993』(著:市川哲夫/言視舎)
蘇るあの時代のあのドラマ!
元TBSの辣腕プロデューサーが初めて明かす70年代から昭和の終わりにいたる時代の動きとテレビドラマの舞台裏と人間模様。
現場の人間だからこそ語ることのできる企画発想の方法やディレクターとプロデューサーの違いなど、映像関係クリエイター必読の内容。