「生きているだけで大仕事」

僕は、「生きていることは素晴らしい」なんてことは、決して言わない。

そう思う人は誠に結構で、実際、楽しく嬉しく愉快な人生を送っている人は、実にめでたい。ただ、こういう人たちは、仏教などどうでもいいし、仏教の方も、彼らはどうでもいい。

『苦しくて切ないすべての人たちへ』(著:南直哉/新潮社)

仏教が手を伸ばそうとするのは、苦しくて切なくて悲しい思いをしている人たちで、その人たちのためだけに、仏教はある。もちろん、今は楽しく愉快にやっている者も、いつか一転、苦しさに喘(あえ)ぐこともあるかもしれない。その時は、仏教が役にたつこともあるはずだ。

しかし、多くの人たちは、喜怒哀楽は様々でも、おそらくは、いろいろなことを背負って、愉快なことよりつらいことが多い日々を生きているだろうと、僕は思う。だったら、仏教もそれなりに広く、世の中に必要とされるかもしれない。

そもそも、僕たちは誰も生まれようと決心して生まれてこない。生まれたい時に、生まれたいところに、気に入った親を選んで、生まれたいようには生まれてこない。

問答無用でこの世界に投げ出され、一方的に体と名前を押し付けられて、「自分」にさせられる。まさに不本意なまま、予(あらかじ)め人生は始まってしまっている。

これが重荷でなくて何が重荷と言うのか。もう生き始めた最初から、すでに大仕事になっているのだ。

その重荷を投げ出さず、今まで生きてきた事実だけで大したものだ。僕は君たちが生きてきて、恐山に来てくれたことに深く感謝する。そして敬意を表したいと思う。