「無駄な時間は大切だ」

もう君たちの年頃でも、「しなければいけない」ことで時間はぎゅうぎゅう詰めになっている。今しなければいけないことは、次にしなければいけないことに追われて、いつも「時間がない」、そう思うだろう。

違う。時間はある。「しなければならない」ことに塗り固められて、見えないだけだ。

だいたい、事の始めに「しなければならない」ことなどない。我々は生きる意味や目的や理由を知らない。それを知らされて生まれてこない。それを納得して、生まれたいと思ったわけではない。

そして、何かの役に立つために生まれてきたのでもない。生まれてきたら、役に立つこともあるにすぎない。ならば、最初に「生きなければならない」確かな意味も理由もあるわけがない。

これを言い換えれば、我々の人生の土台にあるのは、意味ある時間ではなく、無駄な時間である。役に立たぬ、無駄な自分である。我々はその無駄を発見し、無駄な時間を作るべきなのだ。

「**のため」の時間を解凍して、すべての「ため」を流してしまう。そういう「無意味な」時間こそが、我々の「始め」にはあったのだ。

僕が尊いと思うのは、その「無駄」をあえて受け容れる者である。受け容れて、意味を自前で作ろうとする人である。

あるはずだと錯覚した「意味」でスケジュールを切り刻んで走り回る人ではなく、そうではなくて、無駄で当たり前だと承知の上で、その人生を持ちこたえるために、あえて意味を創作する人である。

無駄を受け容れて、無駄の上に意味をおいて、謙虚に考える人に、僕は強く共感する。