「適当に生きよう」

では、無駄な時間を大切に、どう生きたらよいのか。適当に生きればよいのだ。

ただし、これは考えも無しに場当たりで生きて行けということではない。

仏教が手を伸ばそうとするのは、苦しくて切なくて悲しい思いをしている人たちで、その人たちのためだけに、仏教はある(撮影:新潮社)

「適当」は「適(かな)う」ことであり「当たる」ことである。ならば、何に「適い」「当たる」べきなのか。

それは、各々の「生きるテーマ」である。「夢」でも「希望」でもない。「テーマ」。

自分は何を大切に、誰を大事に思って生きるのか、それを見つけ出し、はっきりさせることが、「適当に生きる」第一歩だ。

自分の「適当」が分かれば、それ以外の余分は切れる。それまで「しなければならない」と思い込んでいたことの大半は、捨てられる。本来の「無駄な時間」が還ってくる。その時間を安易に塗りつぶしてはならない。埋めることを急いではならない。