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『源氏物語』の作者・紫式部(演:吉高由里子さん)の生涯を描くNHK大河ドラマ『光る君へ』(総合、日曜午後8時ほか)。ドラマには多くの貴族が登場しますが、天皇を支えた貴族のなかでも大臣ら”トップクラス”の層を「公卿」と呼びました。美川圭・立命館大学特任教授によれば、藤原道長の頃に定まった「公卿の会議を通じて国政の方針を決める」という政治のあり方は、南北朝時代まで続いたそう。その実態に迫った先生の著書『公卿会議―論戦する宮廷貴族たち』より一部を紹介します。

道長の幸運

長徳元年(995)、兄の関白道隆が4月、関白をついだ同じく兄の道兼も5月に、あいついで病で死去するなか、30歳の道長は権大納言として内覧の宣旨をうけた。道隆の子内大臣伊周(これちか)の後塵を拝していた道長にとって、思いもかけぬ幸運であった。

とにかく年頭に14人いた中納言以上の公卿のうち、8人がその年のうちに病死した。

奈良時代の天然痘大流行のとき、藤原四兄弟(藤原不比等の子、武智麻呂・房前・宇合・麻呂)が病死したが、それ以来の事態である。

道長の抜擢に大きな発言力をもったのは、一条天皇の生母である、道長の姉詮子といわれている。

このとき、関白就任の噂もあったようだが、権大納言という地位からして、それが実現しなかった。そのために、それに准ずる内覧になったのである。

内覧とは天皇に奏上、あるいは天皇から宣下される文書を内見できる権限であり、関白の職務の根幹をなす。当時、道隆の子伊周が上位の内大臣にあったから、それをはばかったという面もあるのだろう。関白よりも格下とはいえ、権限はほとんど変わらない。

実質関白になったのも同然なのである。