立場は盤石ではなかった

そして、内覧就任の1ヶ月後には、道長は右大臣に昇進した。

『公卿会議―論戦する宮廷貴族たち』(著:美川圭/中公新書)

この年、左大臣源重信も道兼と同日に死去しており、一上(いちのかみ)つまり太政官の首班、そして藤原氏の氏長者(一族の代表者)となった。すでに、一条天皇の叔父として外戚の地位にもあるから、これで関白就任を妨げる要因は消滅したはずである。

ところが、道長の政治的な立場は、この時点ではそれほど盤石なものではなかった。道隆の子、伊周およびその弟の中納言隆家との対立が激しさを増していたのである。

伊周・隆家兄弟のあいだの定子は、中宮(皇后の別称)として一条天皇の寵愛を受けていた。

皇子が生まれれば、天皇はその皇子の皇位継承を熱望することは目に見えており、一度は道長に逆転された伊周らの立場が一気に強まることになりかねない。しかも、道長の娘の彰子はこのときわずか8歳であり、まだ入内には時間が必要であった。