一条朝はとくに有能な公卿が多かった時代だった

道長にとって幸いなことに、この公季と顕光は家柄についてはよかったが、あまり有能な人物ではなかった。太政官の政務や儀式で、それが露呈されることがしばしばだったのである。そして、一条朝はとくに有能な公卿が多かった時代であるといわれている。

藤原実資(さねすけ)は、一条朝初頭に蔵人頭(くろうどのとう)を2年ほどつとめたが、その後任が藤原公任(きんとう)、そのあとが源俊賢(としかた)、そして藤原行成が続く。蔵人頭は2人いるが、この行成のとき、もう一人が藤原斉信(ただのぶ)である。

また、斉信の前が源扶義(すけよし)、その前任が平惟仲(これなか)、その少し前が藤原有国なので、彼ら多くが蔵人頭経験者であり、天皇側近としての実務に習熟していた。彼らの中には、弁官経験のある太政官実務に習熟した者も多かった。

こうした実務能力をもった貴族たちが、蔵人頭を終えたあと、公卿として陣定(じんのさだめ)という会議に出席するようになったのである。