公卿らの信頼をえることが必要と考えたのでは
こうなると、道長は関白として公卿会議に超然として臨むよりも、会議の中に身をおいて、彼らの信頼をえることが必要だと考えたのであろう。そのために、あえて一上、つまり筆頭大臣として会議の中にとどまり、現場で発言しながら会議の進行をリードしようとしたのである。
三条朝においては、もはや道長に対立する貴族はほとんどいなかったが、それでも道長は関白にはならなかった。三条天皇からの関白就任要請を辞退までしたのである。
そのことは、道長にとって、内覧で一上左大臣という立場の有効性は、もはや確信となっていたためであろう。そして、外孫後一条が即位すると、初めて一上左大臣の地位を離れて、摂政に就任するのである。
以後、道長は陣定には出席しない。