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『源氏物語』の作者・紫式部(演:吉高由里子さん)の生涯を描くNHK大河ドラマ『光る君へ』(総合、日曜午後8時ほか)。ドラマには多くの貴族が登場しますが、天皇を支えた貴族のなかでも大臣ら”トップクラス”の層を「公卿」と呼びました。美川圭・立命館大学特任教授によれば、藤原道長の頃に定まった「公卿の会議を通じて国政の方針を決める」という政治のあり方は、南北朝時代まで続いたそう。その実態に迫った先生の著書『公卿会議―論戦する宮廷貴族たち』より一部を紹介します。

道長が関白にならなかった理由

藤原道長が一条、三条朝において、あえて内覧、左大臣にとどまり、関白にはならなかった理由を考えてみたい。

内覧というのは、天皇の奏上・宣下に際して、前もって文書に目を通すという職務である。これは、そもそも太政官を中心とする官僚機構を掌握し、天皇の奏上と宣下を独占することなのである。

この内覧の職務を拡大し、幼帝のもとで、奏上なしに決裁できるのが摂政であり、天皇が成人となったとき、奏上や詔勅発給などに拒否権を行使できるのが関白であるとされる。

こうして、摂政にも、関白にも、内覧の職務が包含されるのだから、制度上は摂関になった方がよいわけである。

一方で、周知のように、摂関制度と外戚とは密接な関係がある。

制度的に摂関制度が確立していっても、天皇の外戚という非制度的な関係を有さない場合は、権力が弱体化する恐れが常にあった。だから、道長が外戚関係の構築にもっとも精力を注いだのは、当然のことなのである。

摂関政治とはいいながら、外戚、つまり天皇のミウチ(限られた血縁者)であることが、とても重要なのである。外戚でなければ、首席大臣の権限拡大版であるから、天皇との関係において、不利になってしまう。