結婚と戦争
1941(昭和16)年11月、嘉子は笄町(こうがいちょう)の実家の書生だった和田芳夫と結婚して、和田嘉子となりました。
芳夫は、父貞雄の丸亀中学時代の親友の親戚という関係で、会社勤めをしながら明治大学の夜学部を卒業していました。
2人は池袋のアパートで新婚生活を始めましたが、1943年1月には長男の芳武が誕生して、笄町に戻ってきます。
厳しい生活の中にも、大きな喜びを得た時期でした。
しかし、1944年2月、笄町の家が家屋強制疎開(空襲による延焼を予防するため)の対象となり、港区高樹町に引っ越すことになりました。
1944年6月に芳夫が召集され、この時は一度召集解除となったのですが、1945年1月に再び召集されて上海へと渡りました。
この頃嘉子は、友人とともに日比谷公園に出かけ、友人の夫の無事を願うおまじないとして、炭で亀の背中にその名前を書き、公園の池に放したといいます。
誰もが不安を抱え、励ましあって生きていました。