信虎の悪行説

もっとも理由が明快な(1)説を検討することにしよう。

『勝山記』には、「この年(天文十年)六月十四日に武田大夫様(信玄)、親の信虎を駿河国へ押し越し御申し候、(中略)信虎出家めされ候て駿河に御座候」と書かれている。

『戦国大名の家中抗争 父子・兄弟・一族・家臣はなぜ争うのか?』(著:渡邊大門/星海社)

この記事によると、信玄に追放された信虎は、駿河国で出家したらしい。

しかし、実際に信虎が出家したのは、復権を断念した天文12年(1543)頃といわれ、法名は無人斎道有である。

信虎が追放された理由は、先に触れたとおり「悪行」であった。信虎が出家をしたというのは、甲斐での復権を断念したということになろう。

同じく『塩山向嶽禅菴小年代記』には、「辛丑(天文十年)六月中旬(信虎が)駿府に行く。晴信、万民の愁いを済まさんと欲し、足軽を河内境(甲斐と駿河を結ぶ街道)に出し、その帰り道を断ち、(信玄が)即位して国を保つ」とある。

駿河国から甲斐国に至る道が封鎖されたので、信虎は帰国できなくなった。その直後、信玄は武田家の当主の座に就いたのだ。

すでに述べたとおり、信虎は悪逆無道の人物であったため、信玄が民衆らの期待に応えて、信虎を放逐したということになろう。

『塩山向嶽禅菴小年代記』には、このあとに続けて甲斐の民衆は大いに喜んだと記されている。つまり、信玄は悪政を行った信虎を追放し、自らが後継者となったのである。

信虎の悪行説は非常にわかりやすいが、その反面あまりに理由が単純すぎて、かえって真実味に欠ける側面がある。

信虎はかわいがっていた猿を家臣に殺されたので、その家臣を手討ちにしたという話まである。悪行説は、信玄が信虎を追放した理由を民衆の感情に押し付けた印象が強い。

さらに、民衆の期待に応えて信虎を追放したというストーリーは、信玄の正当性を担保するための後世の配慮のように思えなくもない。

本当に信虎は、悪逆無道な男だったのか。