現実味がある信虎と国人(こくじん)・家臣との確執

その点で、(4)(5)の説は、現実性の高い見解であると考えられる。

そもそも信虎配下の国人たちは、それぞれが自立性が高く、決して完全な配下にあったわけではない。いうなれば緩やかな同盟関係といえよう。

(写真提供:Photo AC)

つまり、信虎の態度如何によっては、離反する可能性が高かったのである。それは武田氏だけではなく、ほかの大名も似たような環境にあった。

戦国時代において、家臣が当主とは別人(兄弟や子)を擁立し、当主を追放する例は少なからずあった。大名家中における家臣団の意向なりは、かなり尊重されたのである。

一般的にいえば、新しい当主を定めるときは、家臣の合意が必要だったのだ。家臣の意向に反して、希望していなかった人物が当主に擁立されると、家中が二分し対立することも決して珍しくなかった。

当時、信虎は領土拡大策を採用しており、国人たちは従軍を余儀なくされた。その軍事的な負担は、当然ながら国人の肩に重くのしかかってくる。

同時に、信虎による棟別銭(むなべちせん)(家屋にかかる税金)の賦課(ふか)なども、国人にとって不満の種であった。

当主が国人・家臣らの信頼を失うと、たちまち窮地に陥ることも珍しくなく、国人や家臣の心は徐々に信虎から離れていったのである。

信玄が単に「父憎し」という思いから、単独で行動を起こすことは考えにくい。いかに今川家と姻戚関係にあるとはいえ、義元と結託するのも現実的ではないであろう。

家督をめぐる問題は、あくまで武田家の問題であるが、信玄の一存では決めかねる重大な問題であり、家臣の意向も重要だった。

結論を言えば、信虎に不満を持つ国人・家臣らの突き上げにより、信玄が父を追放せざるを得なかったというのが実情ではなかったか。

実際には、信玄が国人・家臣に推戴され、父を今川家に追いやったといえよう。いかに信玄とはいえ、国人・家臣らの支持がなければ、信虎の追放劇は成功しなかった。