広島での原爆体験をもとに、中沢啓治さん(1939~2012年)が描いた漫画『はだしのゲン』。被爆体験を語る人がまだ少なかった51年前に発表されるや社会に衝撃を与え、ベストセラーに。今も日本のみならず、世界中で読まれています。作者はどんな思いでこの作品を描いたのか。啓治さんの没後12年を迎えた広島で、妻のミサヨさんに聞きました(構成=篠藤ゆり 撮影=大島雅紀)
母親の死をきっかけに原爆を描く決心を
話が前後しますが、夫の母親が亡くなったのは、私たちが結婚して8ヵ月後でした。広島で火葬したら、骨の形が残っておらず、灰だけになっていて。放射能の影響で、骨までボロボロになっていたんですね。
それを見て夫は、「もう、黙ってはいられない。絶対に許せない」と怒りを抑えられなくなったようです。東京に戻るまで、ずっと無言でした。
自分は被爆者で、漫画家だから、オレしか原爆に関する作品を描ける人間はいない。そんな思いから、まず短篇漫画『黒い雨にうたれて』を描き、『黒い川の流れに』、続いて『黒い沈黙の果てに』など、短篇を何作か青年誌で発表しました。
その後、「やっぱりオレは少年誌に描きたいんだ」と言って、集英社の『週刊少年ジャンプ』に持ち込んで。何作か発表しているうちに、初代編集長だった長野規(ただす)さんから自叙伝的な作品を描かないか、と言われたんです。それで描いたのが短篇『おれは見た』。
自叙伝となれば、身内のことも描くわけでしょう。誰かに何か言われるんじゃないかと、ちょっと怖かったみたいです。「何があるかわからないから、オレは電話を取らない」と言っていました。幸い、何ごともありませんでしたが。その時、初めて自分の体験を話してくれたのです。
8月6日の原爆投下の瞬間、小学1年生だった夫は、友人の母親に呼び止められて塀の陰に入ったことで熱線を浴びず、奇跡的に助かりました。しかし辿り着いた自宅は燃えていて、家にいた父親、姉、末弟の姿を見つけられなかった。
ひとりぼっちになったと思ってさまよっていたら、知り合いのおばさんが「お母さん、生きてるよ」と声をかけてくれた。それで会いに行ったら、お母さんが生まれたばかりの赤ん坊を抱いてしょぼんと座っていた――。
たった6歳の子どもが、原爆によってこんなむごい経験をしたのかと、言葉も出ませんでした。