六 中篇
「こっちにくるのははじめてかな?」
すっかり日が落ちて、赤や青のネオンのともる道を歩きながら、百合川はふりむいてハルにきいた。白いワンピースの裾が夕方の風にひらひらと軽やかに揺れている。
初音町から柳川にでて、百合川に案内されるままにハルは川沿いの裏寂れた雰囲気の路地を歩いていた。着物を着た娼妓たちが客を待つ初音町とはちがって、長衫の台湾人の女性たちが軒先に立つ姿から、こちらは台湾人向けの歓楽街なのだと予想はつく。もちろん、きたのははじめてだった。
はい、はじめてです、と答えると、百合川は、それではいきつけの店にいこう、と微笑んだ。白黒まだらの猫が一匹、百合川を案内するように、細く曲がりくねった路地をたったっと駆けていった。
ガラガラと音を立てて引戸を開け、百合川がハルを案内したのは、ほとんど廃墟かと見まがうような、小さな食堂だった。狭い店内に年季の入った茶色い木のカウンターと小さな円卓が三つあり、労働者風の男たちに交じって、化粧の濃い女たちが談笑しながら食事をしていた。
百合川は、カウンターの一番奥、窓際の椅子を引いてハルにすすめ、自分はその隣に座った。窓からは対岸のネオンが見える。店主と思しき中年の男が百合川に軽く会釈すると、台湾語でなにか話しかけた。百合川は、うなずいて返事を返す。
すぐに大きなどんぶりが机の上に置かれた。豚の角煮のようなものがごろごろと白飯の上にのっている。八角の甘いにおいが食欲をそそった。よく見ると、百合川の前に置かれているのは、小さな茶碗だった。つい気になってハルはきく。
「そんなに少なくて大丈夫なんですか?」
「だれもかれもきみほど食べるわけじゃないさ。さあ、冷める前に食べてくれ。滷肉飯(ローバァプン)ははじめてかな?」
たぶん玉蘭がハルの健啖ぶりを百合川に伝えているのだろう。一方的に知られているということが恥ずかしくて、ハルは視線を窓の外に向けたままうなずく。
はじめて食べる滷肉飯は、驚くほどおいしかった。甘めに煮込まれた肉の旨みがぱらぱらしたごはんの一粒一粒に絡みつくようで、ハルはあっというまに一杯目をたいらげ、すすめられるままに二杯目も食べてしまった。