公衆電話の普及
別れの場面に電話が登場したのもこの頃であった。
新設の東芝(東京芝浦電機)レコードから昭和34年11月に松山恵子「お別れ公衆電話」(作詞:藤間哲郎、作曲:袴田宗孝)が発売された。
上京してきた若者と、故郷に残った若者との最後の電話であったのだろうか。
全国の公衆電話は昭和15年(1940)に約1万7249台であったが、同35年(1960)には13万3518台へと増加した。
この頃は市内通話が10円で時間無制限で通話できたが、昭和45年(1970)1月30日から3分10円となった。
従来の乗り物を使った男女の別れの場面は、列車が発車する駅のホーム、船が出て行く港の波止場に限られていたが、そこに飛行機が出発する空港が登場したのである。
これも高度経済成長を迎えた頃の時代を反映していた。
※本稿は、『昭和歌謡史-古賀政男、東海林太郎から、美空ひばり、中森明菜まで』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。
『昭和歌謡史-古賀政男、東海林太郎から、美空ひばり、中森明菜まで』(著:刑部芳則/中央公論新社)
日本人の心を踊らせ、泣かせてきた昭和の歌謡曲。
本書は音楽家が残した一次史料を歴史学の手法を用いて検証。各曲が生まれた背景とその特徴を炙り出す。
藤山一郎、笠置シヅ子、山口百恵……。人はなぜ昭和歌謡に魅了されるのか。