深夜の火事

消防署へ急報したのち、橋本家に火事を知らせようとしたが、表のシャッターが開かなかったという。近所の男たちが次々と出てきて、「藤雄さん、火事だぞ、起きろ」とシャッターをガンガン叩いたが反応はない。

なんとか開けた(シャッターに鍵がかかっていたのかどうかは後に疑問になる)が、真っ黒な煙で何も見えない。地域の消防団も駆けつけ、とび口などで裏側の頑丈な木戸などを壊す。

工場内の寮に住んでいた従業員の佐藤省吾さんが中へ入ると、シャッターの表口の近くの8畳の寝室では妻・ちえ子さん(当時)と長男・雅一郎さん(当時=袖師中学3年)が、そして台所横のピアノの間のピアノのそばで二女・扶示子さん(当時=静岡英和学院高校2年)が倒れていた。

妻子3人の遺体は炭化し顔もわからない。昼近くなって土蔵近くで藤雄さんの遺体を消防隊員が見つけた。扶示子さんは大のビートルズファン。友人2人と7月3日の武道館公演を楽しみにし、チケット(4000円)を手に入れ、服も靴も新調していたという。

だが、世紀のコンサートの直前に若き命を絶たれてしまった。橋本邸は懸命の消火作業も及ばず全焼し、午前2時半頃鎮火した。

しかし、8畳間の布団やマットなどに大量の血が残され、失火による焼死ではないことがすぐに推察できた。至るところでガソリンの匂いがした。柱時計は2時14分を指していた。

藤雄さんは、「こがね味噌」の創業者で県内有数の味噌会社に育てた藤作社長(当時)の一人息子。入院中の藤作社長は息子一家の惨劇に、「息子は人に恨まれるようなことは何一つないはずだ。

自分は損しても負けておけという私の言うことをよく聞き、決して他人とは争うことはなかったのに」と立ち尽くした。

県味噌工場協同組合の稲盛利次理事長は藤雄さんについて、「しっかりした経営と文句のない人柄。袖師(自宅付近の地名)の消防分団長もしており火(の管理)には厳しかった。火事とは考えられない」などと話した。