戦後最大の冤罪事件「袴田事件」。見込み捜査と捏造証拠により袴田巌さんは死刑判決を受け、60年近く雪冤の闘いが繰り広げられてきました。88歳の元死刑囚と袴田さんを支え続けた91歳の姉、「耐えがたいほど正義に反する」現実に立ち向かってきた人々の悲願がようやく実現――。ジャーナリスト粟野仁雄氏、渾身のルポルタージュ『袴田巖と世界一の姉:冤罪・袴田事件をめぐる人びとの願い』から一部を抜粋して紹介します。
長女の帰宅直後に一家4人が惨殺
1966(昭和41)年6月、高度経済成長に驀進する列島を熱狂させたのが、英国の世界的人気バンド、ビートルズの来日だ。
日本航空の法被を着た4人が羽田空港に降り立ち、6月30日から3日間に及ぶ「伝説の武道館コンサート」が行われた。
今でこそミュージシャンの武道館ライブは珍しくないが、当時は主催した読売新聞社の正力松太郎会長が「武道のための神聖な場をわけのわからん連中に使わせるな」と発言して物議を醸した。
翌年に『ブルー・シャトウ』の大ヒットを飛ばすジャッキー吉川とブルーコメッツ、ザ・ドリフターズ、内田裕也らの1時間近い前座の後、タレントのE・H・エリックの司会で4人が登場。
『恋をするなら』、『シーズ・ア・ウーマン』、『イエスタデイ』などを披露した、後にも先にもビートルズとして唯一の来日コンサートが初めて開かれたのが、6月30日の夜だった。
この歴史的コンサートの前夜、6月29日の午後10時頃、静岡県清水市横砂(当時)を通る国鉄(現JR)東海道線に面する「こがね味噌」の橋本藤雄専務(当時)の家に、長女・昌子さん(当時)が京都旅行から帰宅した。
橋本邸は清水駅と興津駅の中間に位置するが、両駅からは3キロくらいある。閉まっていた表のシャッター越しに「今帰った」と昌子さんが声をかけると、中から「ああ、わかった」と父・藤雄さんの声がしたという。
昌子さんは家には入らず、祖母と住んでいた近くの社長宅に帰って寝た。
日付が変わって30日の午前2時前頃、「火事だどうー」という大声が夜陰をつんざいた。異変に真っ先に気づいたのは、隣家の国鉄職員・杉山新司さんだ。杉山さんは2階の窓から煙が部屋に入ってきて急に寝苦しくなり、家族を叩き起こした。