昭和30年代にあって「翔んでるキャリアウーマン」だった

ひで子さんは20歳で恋愛結婚をしたが、21歳で別れてしまう。「まあ、性格の不一致でしたね」(ひで子さん)。

その後、母親からは「しょうもない男でも 男は男だから」と再婚を勧められた。しかし、ひで子さんは「しょうもない男なんかと結婚なんかできるか」と突っぱねていた。

「事件の後、『弟のために結婚を断念した』なんて 言われたり書かれたりしていたけど違うんですよ。巖には関係なく、結婚なんかアホらしくてしてられるか、という気持ちでしたね」 と笑って振り返る。

ひで子さんは中学を出て務めた税務署を「女はお茶くみのようなことばかりさせられる」と、13年で退職し、民間の会計事務所に勤めた。

その後、「富士コーヒー」で主に経理を担当し、優れた能力を発揮していた。社長に紹介された経営者から経理帳簿を預かり、経理を代行した。

「商売人たちは人付き合いは上手でも、細かい経理が苦手な人は多い。私は税務署や税理士事務所にいたから、そういうのは得意。1件当たり3万円とか5万円とか。ずいぶん稼がせてもらいました」遊ぶ時は男性とばかり付き合っていたとか。

「女の友達はいろいろとややこしい。男のほうが性に合っていた。独身で週末には行くところもない男連中をアパートに集めては、毎週、麻雀を楽しんでいましたよ」

「女は早く結婚して家庭に入るべし」との社会通念が強かった昭和30年代にあって、ひで子さんは「翔んでるキャリアウーマン」だった。

「20代から33歳までは、本当に青春を謳歌して、好き放題やっていましたね」世を震撼させた放火殺人事件は、そんな頃に起きた。

事件の後、巖さんは「警察が近づいてきて『中瀬(実家の地名)の神社はどこですか?』なんて聞いてくる。どうも俺を尾行しているみたいなんだ」と話すようになった。

それでも、ひで子さんやともさんは「あれだけの事件だからね。警察は一応、従業員全員を疑ってかかり、みんなが尾行とかされているんだろうよ」などと話し、さして気にもしなかった。

だが、次第に雲行きが怪しくなる。

※本稿は、『袴田巖と世界一の姉:冤罪・袴田事件をめぐる人びとの願い』(花伝社)の一部を再編集したものです。


袴田巖と世界一の姉:冤罪・袴田事件をめぐる人びとの願い』(著:粟野仁雄/花伝社)

いよいよ審判が下る、戦後最大の冤罪事件

見込み捜査と捏造証拠により死刑判決を受け、60年近く雪冤の闘いが繰り広げられてきた袴田事件。
数奇な運命をたどってきた88歳の死刑囚と91歳の姉、そして「耐えがたいほど正義に反する」現実に立ち向かってきた人々の悲願が、いま実現する…

無実の人・袴田巖氏を支え続けた姉・ひで子さんと、弁護団・支援者たちの闘いを追った、渾身のルポルタージュ。