957年11月歌舞伎座『司法卿捕縛』、村の青年役(写真提供◎松竹)

戦争が激しくなってからは、横浜の劇場でやっていた「少年少女歌舞伎」に入って。空襲警報が鳴るなかでも芝居をしていましたね。その一座で北海道へ慰問に行き、終戦を迎えたのは旭川。8月15日も芝居をしていたんですよ。ああ、これでやっと自由になったんだと思ったのを覚えています。

終戦後すぐ、初代市川猿翁さんの弟である八百蔵(やおぞう)(後の八代目市川中車)さんに入門しました。空襲で焼けた歌舞伎座はまだ復活していない頃。当時八百蔵さんは松竹を出て芝居をしていたのですが、その巡業にたまたま合流したことがあって。

戦争で大勢亡くなって歌舞伎界も人手不足でしたし、僕は腰元から武士までさまざまな役の経験があったから、便利だと思われたんでしょう(笑)。興行元に「弟子に欲しい」と話があり、移ることになりました。

その後しばらくして、八百蔵さんが猿翁さんのところへ戻り、僕も三代目の市川段四郎さんに入門する形で歌舞伎の世界へ入りました。そこで5年ほど修業してから、初代の猿翁さんに入門して澤瀉屋(おもだかや)へ。猿翁さん亡き後は、若旦那のもとで芝居を続けてきました。

「寿猿」は、初代猿翁旦那の弟さんの名前なんです。本来は血縁でない僕は継げないところ、若旦那が、「ここから選んで」と出した候補から、「寿」の字がおめでたい、と軽い気持ちで選んでしまった。後で事情を知って驚きました。

若旦那は器が大きいから、「役者として大きくなれるかは名前じゃない、自分の頑張り次第だよ」という気持ちで許してくださったんじゃないかと思っています。