最後の1ページまで駆け抜けたい
一昨年私が書いた小説、『泣きかたをわすれていた』(河出書房新社)はかなり自伝的な要素が多い作品ですが、その最後のほうで、主人公の女性は次のように呟くのです。彼女の呟きはそのまま、今、現在のわたしの価値観そのものといえます。
〈わたしは考える。確かなことはひとつ。若いと呼ばれる年齢にいた頃、気が遠くなるほどの長編と思えた人生という本は実際には、驚くほど短編だった、と。ひとは誰でも平凡な、けれどひとつとして同じものはない本を一冊残して、そして死んでいく。書店にも図書館にも、誰かの書棚にも古書店にも置かれることはない、一冊の本。誰かがそのひとを思い出す時だけ、頁が開く幻の本。そのひとを思い出すひとがこの世から立ち去った時、一冊の本も直ちに消えるのだ……〉
私はこの1月で75歳になります。あと何ページ残っているのか、あと数行しかないかもしれない。でも私は、最後の1ページまで駆け抜けたい。もちろん以前より走れなかったり、息切れもするでしょう。けれど、体力が落ちてもそれを補う気力というか、自分の中に貯まっているエネルギーがあります。
何によってエネルギーを得られるかは人それぞれでしょうが、もしかしたら私は、怒りからエネルギーを得ているのかな。報道に接すれば「許せんッ!」と思うことばかりですから。
最後のページが近づいているなら、「今さら誰に遠慮がいるものか」です。ですから、今までと同じように、いや、今まで以上に、「自分を生ききる」と思っています。それは私にとって「明るい覚悟」とも言えます。1月1日は、そうして遺言を書くことでもう1回、その覚悟の手触りを確認しているのかもしれません。
遺言は、私にとっては、よりよく生きるためのもの。リビング・ウィル、まさに「生きていく意志」なのです。