休むため、遊ぶために働いているのではない

私が父と接していたのは生家にいる間だけで、上京して以降、成人になってからは、父とともにいることはほとんどなかった。

では父といた日々はどんなふうだったか?

『またどこかで 大人の流儀12』(著:伊集院静/講談社)

私が目覚めると、父はとうに家を出て働きに出かけていた。一度とて、父が母屋でゆっくり過ごしていた日はなかった。前の夜、どれだけ遅く帰宅しても、翌朝、父はいなかった。それが大人の男の行動だと思っていた。

父は働き通しだった。そうしなければ多勢の子供と、従業員を養っていけなかったのだろう。それを見て育ったせいか、私は大人の男は(女性でも)、毎日朝早くから働く人たちと信じていた。休日などなかった。

世の中が変わって、週休二日とか、コロナが流行し、リモートで自宅で働くなどと言い出し、週休三日という人もあらわれた。

それは労働ではない。どう世の中が変わろうと、人は毎日何かしらなさねばならぬふうにできている。

週末を当然のごとく休み、こんなに多い祝祭日も休んでいれば、この国は傾くと私は思う。休むために、遊ぶために、人は働いているのではないし、労働をした代価が休遊の時間ということはあり得ないのではないか?

人は何かしら学び、向上のために励んで行く生きもののように思う。

私の考えが古い? 極端だ? それで結構。