人の徳
藤沢周平の名作『蝉しぐれ』には称(たた)えるべき一節がいくらもある。
指を噛まれた隣家の娘の指を介抱してやるシーンも、その娘と二人して、父の遺骸を積んだ大八車を押すシーンもそうだが、私が何より好きなのは、息子が父との最後の別離の場面で、若過ぎて動揺してしまい、父へ感謝の一言が、どうして自分はきちんと言えなかったのかと悔むシーンである。
なぜあのシーンが素晴らしいのか? それは長く日本人の父と息子は、敢えて感謝を口にする習慣がなく、父は子のために死ぬ気で生きることが当たり前だったからだろう。
週末、上司と(独りでもかまわぬが)休日返上で仕事をすることは人の徳だと、当たり前のことだと私は信じている。だからこの国は、今日まで栄えたのだ。
※本稿は、『またどこかで 大人の流儀12』(講談社)の一部を再編集したものです。
『またどこかで 大人の流儀12』(著:伊集院静/講談社)
国民的ベストセラー「大人の流儀」シリーズ最終巻。
伊集院があなたに贈る最後の言葉――数えきれない出逢いと別れを経験してきた作家が死の直前まで書き綴ったラストメッセージ。