銀座は復興シンボルのひとつだった
『チキンラーメン』と『カップヌードル』は、昭和中期と後期の違いを如実に表している。
当初苦戦を強いられた『カップヌードル』だが、安藤はマクドナルド同様銀座に商機を見出した。歩行者天国で試食販売をスタートさせ、多い日には2万食もさばいた。
立ったままフォークで啜る行儀の悪さも、ハンバーガー同様に若者たちの作る時代の波が反論を消し込んでゆく。
私事ながら、銀座が歩行者に開放されると知った親父の喜びようを強く記憶している。始まったのは昭和中期の最終年の昭和45年8月2日で、大阪万博の開催期に重なる。銀座だけでなく、新宿、池袋、浅草が対象となった。
戦前より文化の中心だった銀座は、戦中に大きな空襲を2度も受けた。戦後は多くの老舗店舗がGHQによって、「PX(進駐軍専用売店)」として接収もされた。
昭和7年に生まれ、敗戦と真っ直ぐに向き合い、戦後日本のミラクルを喜んだ親父は銀座が大好きだった。戦中戦後はさぞ悔しさを噛みしめただろう。
今考えれば、彼らにとって銀座は復興シンボルのひとつだったのだ。その大通りを歩けるのだと、子供のような微笑みで息子に語りかけたあの日が忘れられない。