婦人公論.jpから生まれた掌編小説集『中庭のオレンジ』がロングセラーとなっている吉田篤弘さん。『つむじ風食堂の夜』『それからはスープのことばかり考えて暮らした』『レインコートを着た犬』の「月舟町」を舞台にした小説三部作も人気です。

このたび「月舟町の物語」の新章がスタートします! 十字路の角にある食堂が目印の、路面電車が走る小さな町で、愛すべき人々が織りなす物語をお楽しみください。月二回更新予定です。

著者プロフィール

吉田篤弘(よしだ・あつひろ)

1962年東京生まれ。小説を執筆するかたわら、「クラフト・エヴィング商會」名義による著作と装幀の仕事を手がけている。著作に『つむじ風食堂の夜』『それからはスープのことばかり考えて暮らした』『レインコートを着た犬』『おるもすと』『金曜日の本』『天使も怪物も眠る夜』『月とコーヒー』『中庭のオレンジ』『鯨オーケストラ』『羽あるもの』『それでも世界は回っている』『十字路の探偵』『月とコーヒー デミタス』など多数。

 

第一話
街灯調査員(其の一)

「あの灯りのついているところまで行こう」

 いまはもういない兄の声がよみがえる。

 夕方の終わりに知らない町に佇み、黒い手帳と黒いボールペンをポケットから取り出した自分は、あたかも空からおりてきた黒い鳥のようではないかと一枚の絵を眺めるように想う。

 こうして訪れる町は、いつでも知らないところだ。

「それでいいんだよ、知らない方が」

 兄もまた黒い鳥のごとく知らない町の路上に立っていた。電線が風になびくのを見上げ、夕空に最初の星がまたたくのを探っていた。

「さて、どこから始めようか」

 兄は自分よりひとまわり歳上で、自分よりずっと背が高く、その横顔は異国の美術館に展示されている彫刻作品を思わせた。着古した黒いオーバーコートを羽織り、襟を立てて、

「あの灯りのついているところまで行こう」

 と、まだ子供だった自分の肩に手を置いた。その手のひらの大きさと温かさが、いまも右肩に残っている。

 遠くにひとつきりともっている街灯を見据え、

「ここもまた、さみしいところだ」

 と兄はつぶやきながら黒い手帳に何ごとか記していた。

 自分にはうまく言えないことがいくつもある。大事なことほど、うまく言えない。取るに足らないことばかりが言葉になって残されてゆく。

 兄が手帳から顔を上げて、「さみしいところだ」とつぶやいたとき、自分はまだ十一歳になりたてで、

「さみしいけれど」

 と兄の横顔に話しかけた。でも、その先が言葉にならない。

「けれど?」と兄の目は遠い街灯を見つめていた。

「うまく言えない」と自分は首を振る。

「そうか──」

 兄の声はいつもどこかくぐもっていた。

「うまく言えそうになったら、すぐに教えてくれ」

 自分は首を振るしかない。いまもなお。「うまく言えない」と手帳を開いたまま言葉を探している。