蠣崎氏の影響
長禄元年(1457年)、和人とアイヌの戦い(コシャマインの戦い)が生起し、12館の内10の館がアイヌによって落とされました。
ここで花沢館の蠣崎季繁の客であった武田信広が活躍して形勢は逆転、戦いは和人の勝利に終わりました。
これにより、蝦夷地の和人社会において、蠣崎氏の影響が優勢に。また、武田信広は蠣崎季繁の婿養子となり、蠣崎氏を継承して蠣崎信広を名乗ったといいます。
これは1640年代にまとめられた『新羅之記録』に述べられた事柄ですが、同時代の史料がないため、信憑性を疑問視する意見もあります。