昔もいまもどっちもどっち
年配男性が「俺たちの若いころは」と喋り始めると、パワハラやら体罰やらを乗り越えた、死に物狂いになって根性で部活に取り組んだ、会社のために命を懸けて頑張った……そんな話になっていく。しかも体罰やパワハラ、死に物狂い、根性、命懸けといった言葉を美化、肯定している節さえある。
話の中身こそ違うが、年配女性にも同様のパターンがある。姑の意地悪に負けずに家事を努力して姑に認めさせた……という話を通して、「いまの時代の嫁がいかに楽でぬくぬくとしているか」を語りたがるタイプだ。
聞かされる側は「年配者の時代」を知らないので、「へぇ、大変でしたね」くらいしか反応しようがない。感心や尊敬ではない。昭和の価値観に呆れているか、遠い星の世界だと思っている。適当に聞き流しているのだが、話している本人はみんなが納得し、感服してくれているものと思い込んでいる。
挙げ句には、現在の流行にまで不満や苦言を口にする。「ドリフターズの笑いは面白かった。ドリフの笑いは人を見下したりしなかったからだ」と話す知人がいた。そして「いまのお笑い芸人は低俗でつまらない」と付け加えた。
過去を美化している。人気絶頂のドリフターズは「低俗番組の象徴」に挙げられていたし、ドリフターズの笑いには少なからず「容姿差別、女性差別」があった。当時はそれが許容され、そんな笑いに人気があったというだけのことだ。
テレビのバラエティ番組は草創期から、ずっと低俗化という問題を抱えていた。社会は加速度的に大衆化していったので、それに合わせてテレビ番組も大衆化した。「昔はよかった」わけでもなんでもなく、単純に「低俗化の種類や基準」が変わっているにすぎないのだ。
要は「昔もいまもどっちもどっち」なのであり、昔の価値観が正しかったわけでも、いまの価値観が正しいわけでもない。そう考えれば、昔を懐かしんで現在を批判することに意味があるだろうか。