たいていの事柄はどっちでもいい
もちろん、高齢ではあっても仕事や大きな責任を抱えている人は、イエス・ノーの決断を優先しなければならない。家族の安全や組織の利益を優先する必要もある。だが、そうした人を除けば、実はたいていの事柄は「どっちでもいい」ことのように思う。
明日どこに行こうと、何を着ようと、何を食べようと、大した違いはない。「どちらでもいい」と考えた結果、少しばかり不愉快な目に遭うかもしれないが、だからといってこだわって積極的に選んでいれば正解だった、とは限らない。
いまさら競争することもなく、強硬に主張することもない。もはや派閥に属する必要なんてあるはずもない。万一あったとしたら、派閥に縛られるような場所からとっとと逃げ出すほうがいいだろう。
どちらを選んだところで、大きな差はない。これまではほんのちょっとしたことを大袈裟に考え、生死を分けるかのように錯覚して主張したり、夢中になったりしてきたが、年配者になれば人生そのものが保留状態。毎日毎日の選択や決断によって、人生が大きく更新されていくわけではない。
一線から退いたということ、それは「イエスかノーか」「白か黒か」の選択をしなくてもよくなった、ということだ。少なくとも、明確な決断を迫られる場面が圧倒的に少なくなったことは間違いないだろう。