婦人公論.jpから生まれた掌編小説集『中庭のオレンジ』がロングセラーとなっている吉田篤弘さん。『つむじ風食堂の夜』『それからはスープのことばかり考えて暮らした』『レインコートを着た犬』の「月舟町」を舞台にした小説三部作も人気です。

このたび「月舟町の物語」の新章がスタートします! 十字路の角にある食堂が目印の、路面電車が走る小さな町で、愛すべき人々が織りなす物語をお楽しみください。月二回更新予定です。

著者プロフィール

吉田篤弘(よしだ・あつひろ)

1962年東京生まれ。小説を執筆するかたわら、「クラフト・エヴィング商會」名義による著作と装幀の仕事を手がけている。著作に『つむじ風食堂の夜』『それからはスープのことばかり考えて暮らした』『レインコートを着た犬』『おるもすと』『金曜日の本』『天使も怪物も眠る夜』『月とコーヒー』『中庭のオレンジ』『鯨オーケストラ』『羽あるもの』『それでも世界は回っている』『十字路の探偵』『月とコーヒー デミタス』など多数。

 

第二話
ふたりオオカミ(其の一)

 誰かがアパートのベランダで布団を叩いている。 
 その音が、どうしてか遠くに聞こえる。ここはきっと、どこからも遠いのだ。母らしい選択。どこからも遠い部屋。
 母はいつも、そのような場所を好んだ。「遠方へ」と母はしばしば口にしていた。町はずれにひっそりと建てられたこのアパートの一室に身を置き、この部屋から遠方を望んでいた。
 それは、決して叶えられない憧れのようなもので、遠くを望むために母はこのアパートに居座りつづけたのだと思う。

 

「あなた、お母さんによく似てるわ」
 と母を知る人は口を揃えて言った。
「お母さんの魂が、あなたに乗り移ったんじゃないかしら」 
 自分でもそう思うときがある。
「遠方へ」と、わたしもいつからかつぶやいていた。自分の声がこの部屋で残響になり、いつまでも消えずにあるような気がする。
 おそらく、母の声も洋梨のようなかたちの吹き出しとなり、まだそのあたりに残っているかもしれない。
 (なつき)とわたしを呼ぶ母の声が聞こえる。(あなた、何を言ってるの? わたしが他界してから、もう二週間は経ってない? わたしのつぶやきなんて、もうどこにも残っていないでしょう?)

 

「手荷物ひとつで旅に出たい」と母は手帳に書き残していた。
 旅に出る代わりに、わたしは教会へ行こう。自分にとって、遠くて近い旅先のような場所だから。
「他界」した母が通っていた教会。
 どうしてか、わたしはいつも同じところにきてしまう。
 花を見るために人が集まり、彼らは皆、聖人になりたいと願っている。でも、その思いを口にする者はいない。思いだけが花のまわりに集い、十月の終わりの風が吹いて、彼らの前髪を静かに揺らしている。
 教会に咲くその白い花に包まれて眠ることを母は望んでいた。そのとおりにしてあげた。花に包まれて母は「他界」したのだ。「他界」という言葉を母は好んでいた。いまいる界隈から別の界隈へ旅に出ること。
 手荷物ひとつで。花の香りに包まれながら。