◆憂いの中の格調の高さ
なぜ、モーツァルトの物憂げな短調作品が僕を捕えてやまないかというと、悲しいのにすがすがしいほどに疾走感があって、暗い感情だけにとどまっていないからです。なんだか、新しい感じがしません?
短調作品でいちばん有名なのは、交響曲第40番だと思うのですが(あの出だしは誰もが耳にしたことがありますよね?)、流れるように、いやむしろ急き立てるかのようにメロディが疾走していきます。
ほかにも、お母さんが亡くなったときに書き下ろしたピアノ・ソナタの第8番や、ピアノ協奏曲 第20番と第24番など、どの作品も、遅めのテンポで荘重かつベタに悲しみを表現するのではなく、冒頭や主題のメロディがほとばしるように描かれているんですね。むしろ、爽やかな感じ。これは完全にほかの作曲家たちには見られないスタイルです。
きっとモーツァルトは、悲しみを独自の表現方法で払拭したかったんでしょうね。
そして、たとえ短調で始まったとしても、最後は驚くほどに希望の光を感じさせる明るさがあります。これがモーツァルト特有の感情表現なんですね。どれほど人生の喜怒哀楽を感じて生きていたのだろう……と思うと、もうその時点でふつうの人間のレベルを超えているように思えます。
短調作品を聴くにあたって、みなさんにおすすめの作品は、たとえば、ニ短調、ハ短調K475『幻想曲』、ロ短調K540『アダージョ』や、ピアノ曲ではありませんが、最後の大作『レクイエム』の中の合唱曲の『ラクリモーサ(涙の日)』などなど。『ラクリモーサ』なんて、憂いの中にも格調の高さと優雅さがあって、あんなの天才じゃなきゃ書けません。神の音楽だと思います。
神がかりなところがあったから情緒不安定で、下ネタみたいなことばっかり話していたのかもしれないけれど、悲しみの中にこそ天才性を見出せる作曲家って、やはり、そうはいないと思います。やっぱりモーツァルトは正真正銘、唯一無二の天才ですね。