受け継いだDNAに翻弄されるかのように

音楽をちゃんと学んだ母とは違う私は「音楽で飯は食えない」と判断。役者を本業としながら音楽を続けようと決め、桐朋学園短期大学の演劇コースに進学しました。でもバンド三昧の日々を送ります。

卒業後は「基礎を固めろ」という祖父の指示に従い、日本舞踊の吾妻徳穂先生(先代)の内弟子に。4年後に師範名取になりました。他の稽古事も、名取になったタイミングと前進座50周年記念公演が重なったことから終了。私は24歳で正式に劇団に所属し、二代目中村梅雀襲名の運びとなりました。初代は曽祖父にあたります。

私が世の中に知られるようになったのは、1995年に放映されたNHK大河ドラマ『八代将軍吉宗』の徳川家重役からです。言語障害を持つインパクトの強い役だったのと、中村梅之助の息子だということで注目していただき、以後、ドラマ、映画、舞台と活動の場を広げてきました。

 

駄目出しばかりの劇団時代

人の作り出す世の中は、さまざまなことが渦巻いているし、そのうえに大自然の変動などが加わる。私にも暗黒時代がありました。

前進座に入ったものの、劇団は年功序列の世界で、私は何年経っても32番目。さらに、私を目の敵にする先輩もいました。でも、翫右衛門は実力主義であるべきだと考えて前進座を立ち上げたわけで、身内には厳しかった。その教えを受け継いだ父から、私は駄目出しばかりされていました。

『八代将軍吉宗』に出演したときも「ああいう役をやると損だ」と。つまりスター役者にはなれないぞと言う。でも私は、「梅雀は善人を演じたかと思えば極悪人にもなるんだ」と、人々の期待をいい意味で裏切る役者になりたいと思っていたので、確執は深まるばかり。