長期的に相手を籠絡する手法も

ハニートラップは、クレメント事件のような瞬発的な性交渉の誘惑だけではない。恋愛感情を活用することで長期的に相手を籠絡する手法もある。

クレイトン・ローンツリーは、1984年から1986年まで米海兵隊員としてモスクワのアメリカ大使館で警備の任に就いていた。しかし、彼はKGBの仕掛けた「ハニートラップ」によりアメリカ政府の機密情報を漏洩した。冷戦期を象徴するスパイ事件の一つとして、今なお語り継がれている。

1984年、ローンツリーは在ソ連アメリカ大使館に赴任、海兵隊警備兵としての任務を始めた。翌年9月、ローンツリーは地下鉄の駅で、同じ在ソ連アメリカ大使館の電話交換手兼通訳として働くソ連人女性「ヴィオレッタ・セイナ」と偶然出会う。更に、1カ月後、同じ駅で二人は再び偶然出会った。ローンツリーにとっての「偶然」の出会いは、KGBによって周到に計画・準備された「必然」の出会いであった。

当時の様子をローンツリー自身がこのように回想している。

「セイナが降りる駅を過ぎてしまったので、セイナと私は次の駅で一緒に降りて、アメリカの映画、本、食べ物、好き嫌いなど、さまざまな話題を語りながら長い散歩を始めた。セイナは私の家族の経歴、アメリカでの生活、モスクワでの暮らしの感想などを尋ねた。私たちは2時間ほど歩きながら話をし、その後彼女は家に帰り、私は大使館に戻った。私たちはまた会う約束をした(3)。」

身長175センチ、ミディアムの茶髪と灰色の目を持つ「ヴィオレッタ・セイナ」は、実はKGBのエージェントという二重生活を送っていた。ローンツリーとセイナは先の出会いの後、すぐに交際を始めた。

ヴィオレッタ・セイナ(1987年3月31日『NEW YORK TIMES』)(写真:『謀略の技術-スパイが実践する籠絡(ヒュミント)の手法』より)

実は、ローンツリーとセイナは一度離れ離れになっている。1985年11月にレーガン大統領とゴルバチョフ共産党書記長がジュネーブで首脳会談を行った際、ローンツリーは警備要員としてジュネーブに派遣された。セイナに想いを募らせるローンツリーは、引き離されたことで一層好意を深める結果となった。

(3)CIA『WOMAN WHO SEDUCED MARINE: A STYLISH PRESENCE』