演劇の世界で時代を切り拓き、第一線を走り続ける名優たち。その人生に訪れた「3つの転機」とは――。半世紀にわたり彼らの仕事を見つめ、綴ってきた、エッセイストの関容子が訊く。第46回は俳優の三宅裕司さん。大家族で育ったという三宅さん。明治大学では落語研究会とバンド活動をしていたそうで――。(撮影:岡本隆史)
就職するより笑いと音楽の道に
喜劇役者、俳優、ラジオパーソナリティ、司会者、劇団スーパー・エキセントリック・シアター(SET)主宰、熱海五郎一座座長……と、多くの顔を持つ三宅裕司さん。一貫しているのは、いつも明朗快活、垢抜けした東京ふうの、爽やかな笑いを追求している点だと思う。
それがはっきりわかるのは、司会を務めている時の切れの良さ、相手を傷つけない切り返しの巧みさではないだろうか。それにしても70代とは思えない若々しさ。ポートレートの撮影を横で見ていると、東京下町の男の子そのままの、おどけたポーズをサービスしてみせたりして。
――そうですね。いつもあんなふう(笑)。神田神保町の大家族の中で育ったんで、皆が集まると子どもに馬鹿なことをやらせて、誰が受けるかみたいなことを親が楽しんでいましたからね。
うちの母親は九人きょうだいの長女だったんで、いろんな叔父叔母がいたんです。SKD(松竹歌劇団)出身の叔母が結婚した人は作曲家だったし、母もSKD出身で、日本舞踊西川流のお師匠さん。ゆかたざらいに僕も出たりすると、子どもだから何をやってもみんなが拍手してくれる。そこで拍手の味を覚えたんですかね。
小学校では、1年から6年まで学芸会で毎回主役でした。僕にそういう才能があったのか、うちのお袋の力が強かったのか(笑)。母は、父兄が集まって劇の衣装を作ったりする中心的存在だったので。どんな劇をやったかと言えば、てるてる坊主じゃなくて『ふれふれ坊主』とかね。