三宅さんはこのユニークな家庭環境の中で、どんなふうに成長していくのだろうか。
――大家族の中で育つと学校の成績はいいんですよ。みんながいろんなこと教えてくれますからね。小学校1年の時は総代でした。学級委員にリレーの選手に……女の子にもてたくて頑張ってました。小学4年生の時の同級の女の子が今の女房。でも中学校に入ったら成績はドーンと落ちましたけどね。(笑)
僕は小学校の頃からテレビの『シャボン玉ホリデー』とか、クレージーキャッツを必ず見ていて、植木等さんが好きだったんです。
高校3年の時、銀座メイツというライブハウスへ女の子を誘って観に行って。昼から夜まで5ステージくらい、入れ替え無しでずっと観ていたら、最後のステージで植木さんが舞台の上から、「お前、まだいたのか、クックックッ」って。すごく嬉しかったですね。
明治大学では落語研究会に入りました。僕は渉外係だったので、いろんな噺家さんに学園祭の出演交渉の電話をかけたんです。圓生師匠に「予算は3万円しかありません」と言ったら、「それは前座さんの値段ですよ」とはっきり言われ、芸は安売りしてはいけないんだなと思いました。
ところが志ん朝師匠に「あまり予算がないんですけど」と言ったら、「学生さんでしょ? ギャラなんてどうでもいいですよ」と言って学園祭に来てくれて。いろんな考え方があるんだなと勉強になりました。
明大の落研では四代目紫紺亭(しこんてい)志い朝という高座名で舞台に上がっていました。紫紺は明大のスクールカラー。「志い朝」は志ん朝師匠の字面の良さと、植木さんの《調子いい奴》のC調とを併せたもの。いい名前でしょ。
僕は先輩の三代目志い朝から「四代目を継いでくれ」と言われたんですが、五代目は後輩の立川志の輔が、「先輩の名前をどうしても継ぎたいんです」と言ってきたので継がせてやりました。(笑)
中学、高校、大学とエレキバンドからジャズコンボまでずっとバンドをやっていて、並行して落語もやっていたので、音楽と笑いが中心の学生時代でした。