竹は女の樹だ。細く、風に容易くしなってしまう。けれど、容易く折れはしない――。江戸の片隅の竹林を背負った家で、「闇医者」として子堕しを行うおゑん。彼女の許に、複雑な事情を抱えた女たちがやってくる。

 

〈前回はこちら〉

 

「先生、おとっつぁんと話をしてくれるの?」

「伝えなきゃいけないことは、伝えるさ。本当のことをね」

 お秀が手をつく。額を畳につけるほど深く、頭を下げる。

「お願いします。先生、どうか、おとっつぁんに伝えてください。そして、そして……できるなら、おとっつぁんを治して。前のおとっつぁんに戻してください」

「それは無理だね」

 おゑんの一言に、お秀は顔を上げ、眉を寄せた。苦し気な表情だ。

「あたしは医者だ。病や傷の治療ならできる。けどね、人の心の歪みや変容を正すことなんて、できない。無理なんだよ、お秀さん」

「先生、それじゃあ、あたしはどうすれば……」

 おゑんは、娘の肩に手を置いた。

「ここまでは、どうやって来たんだい」

「歩いてきました。おとっつぁんが地図を持っていて……あの、以前、先生に掛かったことのある人から、先生の噂とお家(うち)の場所を聞いたんだとかで、その人の描いた地図を持ってたんです。それが、わかり辛くて、何度か道に迷いました。でも、あたしは、ただ、おとっつぁんの後ろからついて歩いただけです。どこに連れて行かれるか、ぎりぎりまで教えてもらえなくて……」

「そうかい。じゃあ、これを」

 紙入れから一枚取り出し、お秀に渡す。

「これは?」

「おとつつぁんが持っているものより、よほど詳しく、わかり易い地図だよ。近道も描いてある。これがあれば、一人でここに来られるはずだ」

「地図」

 お秀の喉元が動いた。息を呑み込み、手にした紙を見詰める。

「これから、あんたの身体を診させてもらうよ。その上で、おとっつぁんと話をする。あたしが話せることは、包み隠さず伝える。けれど、それで、おとっつぁんがどう変わるか、何も変わらないのか、あたしには判じられないんだ」

 こくり。お秀が頭を前に倒した。子どものような頷き方だった。

「もし、お秀さんが耐えられないような何かがあったら、ここに逃げておいで。真夜中でも、夜明け方でも構わない。それも難しいようなら、文(ふみ)を届けておくれ。ただし、そのときは、自分がどこにいるか、はっきり記してもらいたい。わかったね」

「それは……先生が助けに来てくれるって、そういう意味?」

「そういう意味さ。お秀さん。あんたに助けが要(い)り用なら、あたしは、あんたを助ける。決して、見捨ても、見放しもしない。約束するよ」

 お秀の唇から、細い息が漏れた。

「どうして? どうして、先生はあたしを助けてくれるの。赤の他人なのに」

「患者だからだよ」

 おゑんは、お秀の手の上に自分の手を重ねた。

「お秀さんは、あたしの患者だ。だから、救うために力を尽くす」

 これまでも、そうしてきた。

 ただ、力の限りを尽くしても、救えなかった患者は多くいる。必死に手を伸ばしても、届かなかった。生きる側に引き戻せなかった。そういう女たちが、大勢いたのだ。それでも、手を伸ばす。腕でも、脚でも、髪の毛であっても掴み、死に流されぬように踏ん張る。

 これからも、そうしていく。

「でもね。お秀さん、あんた次第なんだよ。当人である、あんたがうずくまっていては、助けようがないんだ。何かあったとき、身体が危うくなったときだけじゃなくて、心がぎりぎり追い詰められたと感じたときも、あたしを頼れるかい。ここまで、逃げて来られるかい。報(しら)せてこられるかい。それができないと、あたしは動きようがないんだ。いいね、お秀さん。うずくまって泣いているだけじゃ、手の差し伸べようがないんだよ」

 差し出した手を握り返してくれなければ、どうしようもない。握り返す前に諦めてしまう女たちが、うずくまったまま助けを呼ぼうともしない女たちが、どれだけいたか。

 歯痒い。

 女たちも、女たちに信じ切ってもらえなかった自分も、歯痒い。

「……先生」

 お秀は手の中の地図を握り締め、首を伸ばし、ゆっくりと首肯した。大人の頷き方だ。

「ありがとう、先生。あたし、今、すごくほっとしてます。何かあったら、必ず、必ず、先生に助けてって言う。ここまで走ってくる」

 地図を丁寧に畳み、お秀はそれを胸元に仕舞い込んだ。

「うん、そうしな。逃げ場があるってことを忘れないでおくれ。それでね、お秀さん。念のために、おとっつぁんの店の名前と場所を教えちゃくれないかい」

「え? でも、それは、さっきおとっつぁんがお伝えしましたよね。深川元町の味噌、醤油問屋『三朝屋』だって」

 顎を引く。意外な心持ちがした。

「あれは、本当だったのかい」

「はい、本当です。本通りの真ん中あたりにありますよ。大きな味噌樽の看板が掛かっているから、目立つの。すぐにわかると思うわ」

「そうかい」

 とすれば、政五郎は騙(かた)ってはいなかったわけだ。何を誤魔化そうとも、隠そうともしていなかった。ありのままを、おゑんに告げた。真実をしゃべった。

 おゑんは、そこを見誤ったのだ。

 見誤ることは、ままある。けれど、こんなにも、気持ちが引っ掛かることは珍しい。

 どうも、ズレている。

 これまで、おゑんが出逢ってきた者とも事とも、僅かにズレているような気がする。

 どこが、どんな風にズレている? 外れている?

 わからない。だから、引っ掛かる。

 おゑんは立ち上がり、診療用の上っ張りに手を通した。

「お秀さん、そこに横になって。診察させてもらうよ」

 お秀の顔が強張る。

「股を開いてもらうから、嫌かもしれないけど、すぐに済むからね」

「痛い? あたし、痛いの苦手で……」

「そうだね。痛みが得意って人は、なかなかいないね」

 ここで、少しだけ笑んでみる。

「大丈夫。そんなに、痛くはしないよ。大切なところだからね、傷をつけたりしたら大事だ。そんな真似はしないから身体の力を抜いて、楽にしておいで」

「はい」

 お秀は素直に、夜具の上に仰向けになった。その腰の下に、木綿の布と油紙を重ねて敷く。

「うん。もう少し緩んでおくれ。大丈夫だから、直(じき)に終わるからさ」

 おゑんの一言、一言にお秀は律儀に「はい」と答え、身体の力を抜いた。

 診察には、さほどの時間はかからなかった。

 お秀を連れて、政五郎の待つ座敷に戻る。政五郎は先刻とまったく同じ姿勢で座っていた。一寸も動いていなかったかのようだ。

「三朝屋さん、お秀さんの診察、終わりましたよ」

 そう告げると、政五郎は緩慢な仕草で低頭した。

「お手数をおかけしました。ありがとうございます」

「いえ。これが、あたしの仕事ですから。どうぞ、お顔をお上げくださいな」

 政五郎が身を起こすのを待たず、続ける。

「お秀さん、まだ破瓜(はか)されてはおりませんね」

 政五郎が息を吸い込んだ。そのまま、口を閉じる。

「当たり前ですが、子を孕んでもおりません。あたしが診たところ、もう三、四日もすれば月のものが訪れると思いますよ。ですから、今回は、三朝屋さんの思い違いです」

 政五郎は暫くの間、無言だった。おゑんに言い返すことも、問い質すこともしなかった。

「三朝屋さん、なぜです」

 問うたのは、おゑんの方だった。

「なぜ、こんな思い違いをなさいました。なぜ、お秀さんが子を孕んだと、勘違いなさいました。その理由(わけ)、よろしければ、お聞かせください」

 政五郎が真正面から、おゑんに目を向ける。こちらを射貫くほど尖ってはいないけれど、柔らかくもない。甘さのない目つきだった。商人が品の目利きをするような、どこか冷えた眼差(まなざ)しでもあった。

「先生、それは真でございますか」

 おゑんから目を逸らさぬまま、政五郎が口を開いた。

「お秀は、真に男を知らぬ身体であったのでしょうか」

「はい。あたしが診察いたしました。間違いありませんよ、三朝屋さん」

 おゑんも三朝屋政五郎の視線から逃げない。きちんと受け止める。二人は黙ったまま互いを見据えていた。お秀は部屋の隅で、置物のようにじっとしている。

「あたしはね、三朝屋さん」

 一息吐き出し、おゑんは帯に沿って手を滑らせた。そして、背筋を伸ばす。

「これまで、とんでもないしくじりも、診立て違いもしてきました。苦い思いも、散々味わってきましたよ。でも、お秀さんへの診立ては一毫(いちごう)の過ちも犯してはおりません。ええ、真です。お秀さんは生娘です」

 

(この章、続く)

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