「そうなんですか」
 と彼は驚いているようで、
「じつは、メーカーの名前も知らなかったんです。ちょっと待ってください」
 と胸のポケットから手帳を取り出した。
 雷鳴が轟き、と同時にわたしの空腹も音を立てる。
 (ああ、雷さま、感謝しています。おかげさまで、わたしのお腹が鳴っているのが、かき消されて聞こえません──)

「それは、バルーン社の手帳ですね」
 とわたしの口が動いていた。もはや、職業病である。
「そのコーヒー・ブラック・カラーは、だいぶ前に廃色になっていまして、ボールペンよりめずらしいと思います」
「そうなんですか」
 手帳を開いたはいいものの、ボールペンをこちらに渡してしまったことに気づき、手帳の上でペンを走らせる仕草を宙に泳がせた。
 わたしは前掛けのポケットに入れてあったボールペンを抜き出し、
「よろしければどうぞ」
 と精一杯、腕を伸ばして彼の手に渡した。
「ありがとうございます──ええと──スウィフトの──速記用──バルーン社の──コーヒー・ブラック」
 彼は手慣れた様子で書きとっていた。手帳は使い込まれていて、背の高い彼を仰ぎ見る格好だったので、手帳の表紙に針で引っかいたような傷がついているのがやけに目立った。
「スウィフトのインクでしたら、在庫があります」
 そう言うと、
「信じられない」
 彼は自分の胸に手を当てて小さく首を振った。
「まったく手に入らなくて。見つけたときは買いだめをしているんですが、それもなくなってきて──」
「お仕事で使われるのですか?」
「ええ、そうなんです」
「文章をお書きになるとか?」
「いえ、自分は街灯調査員でして」
(街灯調査員? そんな仕事があったろうか?)

 わたしは頭の中にストックルームの棚を思い描いた。たしか、二列目の三段目に何箱かあったはずだ。
「よろしければ、お譲りしましょうか」
「願ってもないことです」
 雷鳴を聞きながらストックルームに引っ込み、棚の奥に追いやられたスウィフトのカートリッジインクを探し当てると、自分のお腹が盛大に鳴り響いた。