におい
男の姿が見えなくなった瞬間、一気に疲れが押し寄せてくる。
息子が生きるか死ぬかの瀬戸際だというのに、どうしてあんな愚か者に絡まれなければならないのか。憤慨したまま玄関扉を開けた父親は、愕然とその場に立ち尽くした。
家の中に、紛れもない獣のにおいが充満している。
「あんたの家のそれ、うちのベスだからな」
男の言葉が脳裡をよぎる。父親は半狂乱になって家中を見てまわった。
カーペットには人間のものではないチョコレート色の毛がいくつも付着しており、襖にできた引っ掻き傷は犬の爪によるものに見えたそうだ。
息子じゃない。そう思った矢先、背後に濃密な気配を感じた。
ハッ、ハッ、という荒い息遣いが鼓膜を震わせる。大型の哺乳類が発するにおいが、鼻腔をくすぐった。後ろを振り返ることなく、父親は自宅を飛び出した。
息子は死ぬんだ。そう確信した。
しかし予想に反して、建生さんは翌朝に意識を取り戻した。
建生さんは開口一番、涙を流して抱き合う両親に向かって、
「二人とも、ベスの散歩はちゃんとしてくれてる?」
そう言い放ったとのこと。