オグリキャップの運命を変えた中京盃
ターニングポイント1987年10月14日、中京競馬場。オグリキャップにとって、ある意味、運命を変えたレースを迎える。芝1200メートルの重賞、中京盃である。
出走馬は12頭。オグリキャップは中団にポジションをとると、4コーナーは外をまわり、直線に向いてスパートする。ほかの11頭の騎手は手綱を激しく動かし、幾度も鞭を入れているなかで、安藤の手綱がほとんど動かないまま突き抜ける。2着との差は2馬身だったが、安藤は最後は手綱を絞り、うしろを確認しながらゴールしている。
このときの感触がよほどよかったのだろう。笠松時代にオグリキャップは1回しか芝のレースを走っていないのに『TURF HERO'88』の取材のときに安藤勝己は「ダートは下手でしたね」と話していた。
「力が違うから楽に勝ってたけど、ダートだったらもっと強い馬はいくらでもいるんじゃないかな。そのぶん芝の切れ味はすごかった。だから、中央に行ってよかったんですよ」
中京盃に勝った翌日、オグリキャップの運命を左右するもうひとつの大きな出来事があった。中央競馬の五大クラシック――皐月賞、日本ダービー、菊花賞の三冠レースと、牝馬限定の桜花賞、オークス――の第1回登録(登録料2000円)が締め切られたのだ。馬主の小栗孝一は中央の馬主資格を持っていなかったし、中央で走らせるつもりもまったくなかったのだから、当然登録はしていない。
杉本清との対談(※)で、小栗孝一が中京盃のときに中央への移籍を打診するような話があったと語っていた。
「そのときに、知らない人から『小栗さん、この馬、中央に行ったら絶対に走るから』と言われたんですけど、そのときは売る気もないし、中央なんて考えもしなかったですね」
※競馬雑誌『優駿』の連載対談「杉本清の競馬談義」(1994年11月号)