小瀬甫庵は歴史小説家に近いタイプで……
そもそも、この『太閤素生記』を書いた土屋知貞という人がなぜ秀吉の素生を知っているのかというと、知貞の養母が信長の弓を預かっていた稲熊助右衛門という人物の娘だったので、この養母が秀吉のことを知っていて、知貞はその話をよく聞いていたからということです。
つまり、知貞が直接見聞きしたわけではなく、養母の昔話が情報源ということになります。
一方で、『太閤記』を書いた小瀬甫庵は、池田恒興(信長の直臣)や羽柴秀次(とも<※>の長男・のちの関白)に仕えていた人物で、ほかに織田信長について記した『信長記』などの著者でもあります。秀吉の甥である秀次に仕えていた人物ですから、知貞に比べてかなり秀吉に近いところにいた人物と言えます。
であれば、『太閤記』のほうが信用できるんじゃないか、と思う方も多いかもしれませんが、この小瀬甫庵先生は歴史界隈では非常に評判の悪い人物でして、というのも、結構嘘を書く人なんですよね。歴史研究者というよりも、歴史小説家に近いタイプです。
※秀吉・秀長の姉。「とも」は通称。